梨園の外から女形の頂点へ 坂東 玉三郎

あえてスキャンダラスに書くこともなければ、隠す必要もないが、坂東玉三郎は、いわゆる「名門の御曹司」ではない。 歌舞伎に関係のない家の子として生まれ、亡くなった十三世・守田勘彌の芸養子になり、歌舞伎役者の道を歩み始めた。今は、名実共に誰もが認める女形の頂点に立っているが、ここまでの歩みの苦労は並大抵ではなかったはずだ。

玉三郎の「美」を見出したのは、三島由紀夫や澁澤龍彦など、「美学」に関して一家言持った「曲者」だったことが面白い。しかも、昭和の一時代を築いた作家たちがその美しさを認めたことが大きかった。

もちろん、玉三郎が天性備えていた魅力、自らが励んだ努力の大きさは言うまでもない。養父であった守田勘彌は、玉三郎がようやく人気が出始めた25歳の折に、68歳の若さで亡くなってしまう。しかし、玉三郎の幸福は当時の市川海老蔵(後に十二代目市川團十郎)、片岡孝夫(後に十五代目片岡仁左衛門)というまたとない相手役がいたことだ。

海老蔵とは「海老玉コンビ」、孝夫とは「孝玉コンビ」を組み、歌舞伎座ではなく新橋演舞場での「花形歌舞伎」として人気を博した。当時、歌舞伎座では昭和の歌舞伎を担った大幹部たちが円熟の芸を競っていたが、観客たちは若く綺麗な二人のコンビに殺到したのだ。

「芝居が巧い」という点だけを取り上げれば、どちらのコンビも歌舞伎座のメンバーにはかなわなかっただろう。しかし、ファンは「旬の美しさ」を求めたのだ。

玉三郎は、早い段階で歌舞伎以外のジャンルにも興味を示した。『日本橋』、『白鷺』などの泉鏡花作品を中心とした新派作品への出演、『夜叉ケ池』の映画化などに始まり、小劇場でドストエフスキーの『白痴』を演じたこともあった。また、自らが鏡花作品の『外科室』の映画化に当たり、監督の立場にも立った。

当時の玉三郎の行動は、「歌舞伎の女形」としての限界点を探し、それを越えようとしていたように思う。女形として歌舞伎の舞台に立つことだけではなく、坂東玉三郎という歌舞伎の女形が持つ「美学」を様々な形で表現することへの模索、とでも言おうか。

話題性とか「奇をてらう」という問題ではなく、自分が美しいと思うものをどう表現するか、それも含めて女形の仕事、という近代的な感覚を持っているのが坂東玉三郎という女形だ。同じ女形で歌舞伎の頂点に立った昭和の六世中村歌右衛門との違いはここにある。

玉三郎が茨の道を切り拓いて作り上げた道を、今後、誰が続けて歩んで行くのだろうか。よく、「芸は一代」と言う。仮に誰かが玉三郎の後を追ったとしても、同じことはできないだろうし、同じ結果にはならないだろう。女形であろうが立役であろうが、己の進む道は自分で切り拓かねばならないことを一番よく知っているのは玉三郎自身に他ならない。

「芸道」とは厳しいものだ。集団で芝居をしていても、役者はつまるところ己一人の孤独な作業の積み重ねの結果なのだ。玉三郎は、それを体現している役者のような気がしてならない。

日本人が愛してやまない「桜」に例えるならば、玉三郎はぼってりとした色気のある八重桜ではなく、薄紅色のひとひらの桜の花びらのような存在に見える。しかし、その印象は、ひとひらだからこそ鮮烈なのだ。


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コメント

“梨園の外から女形の頂点へ 坂東 玉三郎” への2件のフィードバック

  1. かんな

    玉三郎さん以上の女形はいませんね。 後に続くのは橋之助さんかな

  2. マムマム

    美しさの玉三郎さんを、超える役者さんは出ないかもしれませんね。
    でも、愛らしい役者さんは、中村米吉さんでしょうか?
    玉三郎さんに敵う女形の方は、今の所みつかりません。

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