中村七之助

「時分の花」を咲かせることができるか 中村 七之助

生まれて初めて歌舞伎を観た同級生が、「女形ってあんなに色気があるとは思わなかった…」と絶句していた。「可哀想に。今までの26年の半生でかなり損をしたな」と、年齢をごまかしながら答えたが、歌舞伎を初めて観た人の多くは、「女形の美」に魅了される。

ここで女形の歴史や成立を語るつもりはないが、女形の仕事を観ていると、「つくづく男性の肉体でなければできない仕事だなぁ」と思う。何か、逆説めいた言い方のようだが、役によってはカツラから下駄までで約40キロという重さの衣装などを身にまとい、動きながら話す、というのは、観た目はともかくも、男性に肉体とスタミナが要求されるものだ。

それでいて、あくまでも「たおやかな美」「はかなげな美しさ」を観客に感じさせるか。それが女形の難しいところだ。「能」という歌舞伎よりも古い舞台芸能を大成させた世阿弥は、自らが書いた芸談『風姿花伝』の中で、若い年代にはその若さを魅力とした「時分の花」が咲く、と言っている。今の七之助が咲かせているのが、この「時分の花」だ。若々しく、艶のある青葉のような美しさ、とでも言おうか。兄・勘九郎や染五郎らの先輩の胸を借りて、次々に大役に挑んでいる。

当然ながら、「まだ早い」、「まだ無理だ」と思う役も多い。しかし、人間は誰でも年を取る。その中で、女形の美しさも徐々にではあるが衰えてゆく。その時までに、容貌だけで勝負をすることをせずに、その衰えをも含めて「美しい:「色気がある」と観客に感じさせることができれば、それが「実(まこと)の花」になるのだ。七之助がその年代に差し掛かるまでには、まだ何十年かの時間がある。その間に、若々しい美しさで存分に「時分の花」を咲かせてほしいものだ。

女形の役も、芸者もいれば貞淑な人妻もいる。武家の女房もいれば遊女もいる。「遊女」と一言で言っても、売れないでうらぶれている遊女から、吉原でナンバー・ワンを誇る遊女まで種類はいくつもある。この幅を、これからどこまで広げて行けるか、が七之助の女形として一生を賭ける問題の一つだろう。

まだ青みがかっているリンゴの爽やかな香りもあれば、熟れ切ったメロンの濃厚な甘さもある。今の七之助は、役によっては固さが残るリンゴに近い。しかし、それは否定することではなく、今の時期にしか味わえない七之助の「旬」でもあるのだ。

欲を言えば、もう少し時代物の勉強に力を入れ、先人の遺したお手本や、先輩の玉三郎、魁春、時蔵らの芝居を貪欲に吸収してほしい。そこで苦しむことも悩むこともあるだろうが、それは誰もが通ってきた道なのだ。また、この道を通らなければ、役者としての階段を上ることはできない。これは、七之助一人の問題ではない。

華やかであればあるほど、人目にさらされる機会も多く、古くからの歌舞伎ファンや、「通」と呼ばれる人々からは厳しい採点が続く。これは、伝統芸能の宿命だ。それを跳ね返しながら、「どうだ!」という芝居を見せて来たのが亡き父であり、今の歌舞伎を支えている役者たちだ。そのバトンを、そろそろ引き継ぐ立場になったことを自覚し、歌舞伎の重要な役どころである「若女形」の地位を確固たるものにするためにも、これから二、三年の七之助は、さらに厳しい環境にさらされるだろう。逆に言えば、それは「期待されている」ことの証でもあるのだ。


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