【追悼】『坂東 三津五郎』

病名を聞いた時に、この悲報を聞く日がそう遠くはないだろう、と覚悟はしたものの、実際に耳にした時には言葉がなかった。

誤解を恐れずに言えば、中村勘三郎の時よりもショックは大きかった。単純な好き嫌い、というレベルの話ではない。松本幸四郎、尾上菊五郎らの大ベテランと、市川海老蔵、市川染五郎、片岡愛之助らの花形をつなぐ中間層の「最後の一人」と言っても良い役者だったからだ。

もう一つ言えば、勘三郎の芸は、「良くも悪くも」勘三郎で、個人の性格を反映したものが多かった。極端に言えば「十八代目勘三郎だけの芸」である。しかし、三津五郎は、多くの後輩に示せるキチンとした寸法の物差しを持った芸の持ち主だった。花形・若手にしてみれば、大ベテランの芸を真似する一つ前の段階の物差しを喪ったことになるのだ。この痛手は大きい。

むろん、そのショックは同業の役者だけではなく、ファンにとっても同様だ。特に、世話物と呼ばれる江戸前の芝居において、三津五郎の果たしている役割は大きく、これからもう一つの階段を上がろうとする矢先だっただけに、痛恨、という言葉しかない。

八十助時代から踊りの巧さでは定評があったし、実直な役柄に味わいを見せた。近年の舞台では国立劇場で演じた『塩原多助一代記』が印象に残っている。明治期の落語をゆるぎないものにした三遊亭圓朝の人情噺を舞台化したものだが、ああいう役柄を演じて観客に共感を与える役者が他にいるか、と問われても、残念ながら即座には思い浮かばない。

因縁めいた話に持ち込むつもりはないが、父の九代目、祖父の八代目(事故とも言えるような急死だったが)も共に70歳を目前に亡くなっている。三津五郎という名前に不吉なものがあるわけはないが、59歳にも満たぬ死は、今の時代「若すぎる」と言ってもよいだろう。

三津五郎の芸を見ていると、「枯れる」たちではない。年齢を重ねながら、その年代に応じた香りの花を咲かせる役者だったはずだ。それが、満開の時点で命を終えた、という点で言えば、椿の花がポトリと落ちたような感覚を与える。
しかし、歌舞伎の楽しみは、役者も観客も共に年を重ねながら、「老いてゆく」ところにもあるのだ。三津五郎の「老いる芸」を観る楽しみを奪われた寂寥感は、埋めようがない。

昭和30年代後半、人材の払底で「上方歌舞伎」は崩壊した。今、愛之助、壱太郎らの若い世代が新しい上方歌舞伎の復権を目指して頑張っている。しかし、その一方、「江戸歌舞伎」が今や危機に瀕していることは否定できない。歌舞伎は促成栽培の効かないものだ。

私が綴っているような事は、三津五郎自身が苦しい病中で散々考え、苦しんだことだろう。それを繰り返しても、三津五郎が還って来るわけではない。今、我々にできることは、三津五郎亡きあとの歌舞伎界がどのような変貌を遂げてゆくのかを、しっかりと見守っていることしかない。それが、三津五郎への供養ではあるまいか。

「生老病死は世の習い」と言う。ふだんは実感せずに、当たり前に日々を送っているが、こうしたことにぶつかると、今の自分がいかに怠惰で、今、何を成すべきかを改めて考えさせられるような気がする。冥福を祈る。合掌。


クロワッサン特別編集 古典の男たち (マガジンハウスムック)
2015/10/3


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