三代目 中村橋之助

兄・中村福助が病に倒れ、複雑な想いは胸中察するにあまりある。しかし、間もなく50歳の節目を迎える彼は、後に続く若手のリーダー格としての存在を発揮する立場になった。

20代の頃から爽やかな容貌と科白の巧さは定評のあるところで、亡くなった父・中村芝翫(なかむら しかん)のもとで、着実に古典歌舞伎の修行を重ね、義兄に当たる故・勘三郎と共に新しい歌舞伎の模索にも懸命に取り組んだ。両方の師を亡くした今、自分の身体の中に流れている二つの芸脈を、発揮する場面がこれから増えそうな役者だ。

良い役者に必要な「一声、二顔、三姿」の要素は以前から備わっているし、最近は年齢相応の貫禄も加わり、『寿曽我対面』(ことぶきそがのたいめん)では座頭(ざがしら=一座のトップ)格の役である工藤祐経(くどうすけつね)も演じている。勘三郎のような破天荒さはない代わりに、芸に「折り目の正しさ」がある。これが、彼の強みであり、今後進むべき「王道」だろう。

基礎をしっかり固め、「楷書」の芸が定まれば、後は行書でも草書でも、いかようにも本人の個性で崩すことは可能だ。橋之助は「楷書の芸」は定まりつつある。ここに、彼の「持ち味」を加えることが、これからの仕事だろう。

父・芝翫は喪ったが、橋之助の幸福は、これから自分が演じるであろう、あるいは演じたいと考えている「立役」の主な役の数々を、今の大幹部たちがほぼ網羅していることだ。松本幸四郎、中村吉右衛門、片岡仁左衛門、尾上菊五郎…。時代物、世話物、舞踊、どのジャンルにもすぐそばにお手本となるべき役者がいる幸福を逃す手はないだろう。

歌舞伎の役柄の一つに「実事」(じつごと)ないしは「捌(さば)き役」と呼ばれる物がある。取り立てて華やかな役柄ではないが、物事の分別をわきまえ、道理に基づいて混乱した事態を捌く役どころだ。『忠臣蔵』の由良助、『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)の細川勝元、『寺子屋』の源蔵などが代表格だろうか。

こうした役に、年齢的にもふさわしくなって来たのは楽しみなことだ。一方では、まだまだ白塗りの二枚目も充分な守備範囲だ。こうした役柄の個性を彼なりにミックスしてゆくことで、「中村橋之助」の持つ厚みや深さが増してゆくのだろう。

兄の病床での悔しい想いを、その分も舞台の上で発揮し、中村歌右衛門、中村芝翫と続いた名女形の「成駒屋」の芸脈中で、新たに「立役の芸の花」を開かせてほしいものだ。

定年がないと言われる役者には、その代わりに、その年代ごとにいろいろな勝負をしてゆかねばならないことがある。自分がある役に挑戦するタイミング、それを更に充実したものにするタイミング、これらはすべて自分との闘いという勝負だ。

今、橋之助は、多くの勝負で自分をもう一段伸ばさなくてはならない時期にいる、と私には見える。彼の努力にゆだね、その花がいつ、どのように咲くのかを待っている。


中村義裕 演劇批評


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