片岡愛之助

「半沢直樹」で大ブレイクして以来、片岡愛之助が歌舞伎役者だと初めて知った、という人は意外に多い。 どんなきっかけだろうが、構わないのだ。 今や、歌舞伎だけではなく、ジャンルの違う舞台、映画、テレビ、バラエティと、八面六臂の大活躍を見せる片岡愛之助。「10年間休みなしです」とテレビのインタビューで語っていたが、実際に、ある芝居の上演中、夜の部の公演の後や僅かしかない休演日を映画の撮影に充てている、と本人から聴いた。

 今の愛之助を見ていると、仕事を選ばずに何でもかんでもやっている、と古くからの歌舞伎ファンには目をひそめられそうだが、私はそうは思わない。歌舞伎では市川海老蔵や市川染五郎と並んで若手のリーダー格の一人として、さらに若い世代の役者を育てながら、古典や新作に挑んでいる。それだけではなく、目が回るような忙しさの中で、いろいろな媒体で初めて「片岡愛之助」を知ってもらい、ファンになった人たちを、まとめて歌舞伎へ連れて帰ろうとする意気込みが感じられるからだ。

観たわけではないが、出雲の阿国が「かぶき踊り」を始めた頃、京の人々はその異形ないでたちの中に「時代の最先端」を感じたはずだ。それが「傾く」(かぶく)と言われ、「かぶき」という芸能になったのだ。その歴史や精神を考えれば、片岡愛之助のしていることは、しごく全うだ、とも言えるのだ。それは、彼の中に「大事にすべき歌舞伎」というものがはっきりとあるからだ。同時に、役者である以上は、歌舞伎役者であろうが、オファーがあれば現代劇でも演じられなければ、役者とは言えない。事実、彼が「半沢直樹」以前に何本かのドラマに出た折に、「科白が歌舞伎調になっていないですか」ということを非常に気にしていた。私は、何の違和感も覚えずに観た旨を伝えたが、どの仕事にも正面切って体当たりをし、吸収できるものはすべてしたい、というエネルギーと決意がそこには見られる。

片岡愛之助は、今は少なくなってしまったが、元々上方歌舞伎の役者だ。関西の地に生まれ育ち、昭和56年12月に、9歳で十三世・片岡仁左衛門の部屋子として歌舞伎役者の道を歩み始めた。「部屋子」とは歌舞伎独特の制度で、見込のありそうな子役を、師匠の手元に置いて自ら芸を仕込む、というものだ。その後、仁左衛門の次男・片岡秀太郎の芸養子となり、さらには実際に養子縁組を結んだという結果を見れば、部屋子にした十三世の目に狂いはなく、その抜擢に見事に応えて来た愛之助の姿が今、ここにある。

関西に拠点を置いていた片岡一門は、昭和30年代から40年代にかけて、「上方歌舞伎」と呼ばれていたものが滅亡したのを目の当たりにしている。愛之助はもちろん生まれていないが、東京に生まれ育った同世代の役者よりも、その危機感にリアリティを持って感じて来たはずだ。今すぐに歌舞伎の危機が訪れるとは思わないが、そうならないために、彼は寝る間も惜しんで仕事をしているように、私には見える。

「演劇は時代と共に変容するものだ」というのが私の持論だ。江戸時代からの歴史を持つ歌舞伎も、演じる方も観客も、平成の「今」を生きる人間だ。その人々が、歌舞伎をどう捉え、どう演じて見せるのか。愛之助たちの目の前に積まれている宿題は、実に難しい問題で、すぐに結果が出るものではない。その結果を出すのは我々観客でもある。それには、愛之助が「歌舞伎の面白さ」をどう伝えてくれるか、そこにかかっている。


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