市川海老蔵さんの『石川五右衛門』新橋演舞場 お正月に『市川海老蔵でござりまする』が地上波で放送されるほど人気ある海老蔵さんだけあって、 チケットが取れたと思ったら見事に後ろの方でした。グズン。 少し前に、愛之助さんも今井翼さんと『GOEMON』をやられていましたね。 五右衛門さん、歌舞伎では人気のヒーローなんですね。 ストーリーもとても単純。でも演出と衣裳と演者さんが豪華! 海老蔵さんのパワーとオーラでぐいぐい魅せる舞台で、展開も早く派手。 まさに絢爛豪華な歌舞伎絵巻といった感じ。 お正月にふさわしい舞台だったと思います。 オープニング、浅葱幕がどすん!と降りて幕に大きく書かれた「石川五右衛門」がどどーん!となるのですが、この演出も映画的(漫画的?)でインパクトありました。 このの題字がとても素敵で、書家はどなたかな?と気になって後から調べてみましたが、わからなかった…。うーん残念。 さてお芝居の話。 「現代歌舞伎」というジャンルなのでしょうか? なんとなく全体的にライトだし、スピィーディーで見やすいのですが、 歌舞伎独特の重厚感は感じられませんでした。まあそれで良いのだと思いますが。 あとなんとなく盛り上がりどころが掴みにくい感じが。(遠くの席だったからかな) 演じているが側と、見ている側のタイミングが、なんとなくズレているような気もしました。 右近さんの秀吉との会話のシーンも、もっとコミカルにアドリブ合戦のようにしてもいいような気もしました。 お正月だし(笑) 五右衛門と言えば、名台詞「絶景かな、絶景かな」ですが、この台詞が今回は2回出てきます。当然ラストにこの台詞が出て来るのですが、2009年に上演された前回よりスケールアップした今回のストーリーで、この台詞を2回言うのはとても効果的だったなと思いました。(次回は3回言うのかな?) さて今回のこの舞台では、youtubeに石川五右衛門のプロモーションビデオが公開されており、 これがまたかっこいい! http://youtu.be/fa4SqsGyVRc 歌舞伎も映画のように、若い人やそれこそ世界中の人に興味を持ってもらえるような、こういったプロモーションも、どんどん仕掛けてほしいですね。 それこそ舞台のロゴを作るってことだって結構大事だと思うですよね。 演舞場にいたお客さんはほぼご年配の方々。 うーん無理もありません。だって平日の昼間ですもん。 六本木歌舞伎もそうですが、なんとかしてもっと多くの若い人に見てほしいです。 夜の部っていっても、16時半だもんねえ…。行けないよ普通。 3月は歌舞伎座の夜の部を観に行こうかな。 クマゾも見たよ!
おや、なかなか鋭いところに目をつけましたね。確かに、歌舞伎の場合、明治以降に創られた「新歌舞伎」と呼ばれる作品郡や、最近、ジャンルの違う宮藤官九郎や野田秀樹などの作家が作品を提供するケース以外には、あまり「演出:○○」とはチラシに書いてありませんね。 これは基本的な原則、と考えていただければ良いと思うのですが、一本の芝居の中で、主役を演じる役者が「演出」を兼ねている、と思っていただいて良いでしょう。 江戸時代には、「演出」という言葉はありませんでした。これは、明治維新以降、西欧の思想が流入する中で、「作品の意図を汲み取り、解釈のもとに舞台をまとめ、統一を図る」という意味合いでできたものです。 歌舞伎の場合は、主役を演じる俳優が、自分で工夫した演技や型などを、共演の俳優と相談しながらまとめていく役割を担っているケースが多く見られます。それが、今で言う「演出」という言葉に相当するのではないでしょうか。 場合によっては、遥か昔に亡くなった方の名前が「演出」として掲載されていることもありますが、これは、その作品の初演の形を創り上げた先輩に対する敬意の現われ、と考えていただいてよいでしょう。 ただ、これからは、現代の観客の生理やテンポに合わせて、今までの古典作品の味わいを損なわないように、作品のカットや科白の言い換えなどに心を砕くことも歌舞伎の課題の一つです。 こうした、「テキストレジー」に当たる作業を、演劇の世界では「補綴」(ほてつ)と呼び、これは歌舞伎に限ったことではありません。こうしたことからも、「演劇は時代と共に生きている」ということが証明されるんですよ。
この秋の話題作と言えば、人気漫画『ワンピース』を歌舞伎化して新橋演舞場で市川猿之助が上演する舞台でしょう。初演にも関わらず、二ヵ月連続での上演、というところにも猿之助の並々ならぬ意気込みが感じられます。 どんな名作、古典でも、初演当時は「新作」でした。それが歌舞伎400年の歴史の中で洗い上げあれ、淘汰され、現在は古典芸能として残っています。そういう視点から見れば、今までにも他の役者が試みて来た舞台同様に、新しい挑戦の一つとして歓迎すべきことではあります。 ただ、全く問題がないわけではありません。今回は、歌舞伎化する作品が人気漫画であるだけに、原作を知り、読み手としてのイメージを持っている観客が大勢います。一方で、従来の歌舞伎ファンの中には『ワンピース』という名前さえ聞いたことのない方々も多いでしょう。 どんな舞台でも、100%すべての観客が満足することはありませんが、この両極端な広がりを持つ観客をどこまで満足させられるか、その最大公約数を探すことがまずは重要でしょう。この舞台の脚本は、劇作家の横内謙介が担当します。劇団「扉座」の代表でもあり、今までに多くの素敵な作品を書いて来たベテランの劇作家が、この素材をどう調理するか、腕の見せ所でしょう。 まだ幕が開いていないので想像でしか物を言えませんが、恐らくは「誰が観ても楽しめる冒険活劇」のようなスペクタクルに富んだ舞台になるのではないでしょうか。ここまではある程度の予想範囲ですが、歌舞伎全体から眺めると、他の問題も見えて来ます。 最近、スペクタクルに富んだ新作や復活の上演などが主に若手の主演で増えています。若い観客動員のためには良いことですが、一方で従来からの古典作品をどうするか、という問題も重要です。今の観客のペースでは明らかに長い、あるいは理解しにくい、と思われながらも、名作としての歴史を持つ作品はたくさんあります。それらをどういう「眼」で見るか、ということです。 長いから無闇にカットすれば良い、というものではありません。科白一つにしても、現代の観客に判りやすいように言い換えるべきかどうかは、重要な問題です。人気のある演目だけを繰り返し上演していては、歌舞伎のレパートリーはどんどん狭まります。その中で、それぞれの作品を確かな眼で見直し、現代の観客に合うようにどこをどう直すのか、あるいは直さないのか。「テキストレジー」と言いますが、今のタイミングで、少なくも向こう50年は通用するようなテキストレジーを必要とする作品も多いでしょう。 これは大変な難事業です。一本の歌舞伎を、キチンと見直そうとすれば半年や一年はかかる仕事です。現行上演可能、と言われているだけで300本、と言われる作品すべて、とまでは言いませんが、これらにどういう眼で対峙するのか。シェイクスピアの作品は、同じ物でも何回訳し直されたかわかりません。しかし、歌舞伎は、今までにほとんどそうした経験を経ていません。 この『ワンピース』の上演が、今後の歌舞伎の方向性を考える上で、こうした重要な問題を抱えているのだ、ということも、改めて申し上げておきましょう。これは、未来の観客のための仕事なのです。 発表された配役 市川猿之助/ルフィ、ハンコック、シャンクス 市川右近/白ひげ 坂東巳之助/ゾロ、ボン・クレー、スクアード 中村隼人/サンジ、イナズマ 市川春猿/ナミ、サンダーソニア 市川弘太郎/はっちゃん、戦桃丸 市川寿猿/アバロ・ピサロ 市川笑三郎/ニョン婆 市川猿弥/ジンベエ、黒ひげ(ティーチ) 市川笑也/ニコ・ロビン、マリーゴールド 市川男女蔵/マゼラン 市川門之助/つる 福士誠治/エース 嘉島典俊/ブルック、赤犬サカズキ 浅野和之/レイリー、イワンコフ、センゴク 10月分のチケット発売は、8月20日(木)より発売 11月分のチケット発売は、9月20日(日)10:00より発売 スーパー歌舞伎Ⅱ...
前の名の中村信二郎時代から馴染み深く観ていた役者だ。スマートで端正な二枚目ぶりは変わらない。 20年以上も前の話になるが、歌舞伎ではなく新派で『残菊物語』という芝居を演じた。これは、実話を元に歌舞伎の世界を描いた作品で、主人公の薄倖の二枚目役者を演じていた姿が役柄にぴたりとはまり、今も鮮やかに残っている。 中村錦之助という名前は、後に「萬屋錦之助」となって映画界の大スターとして一世を風靡した伯父の名である。しかし、今や先代の現役での活躍を知る人も少なくなりつつある今、二代目としての役者ぶりを見せることが、大きな目標だろう。 一時はあまり目立つ役を演じる機会に恵まれなかったが、その間も腐ることなく歌舞伎の修行をしていたのだろう。2015年の6月、歌舞伎座で大作『新薄雪物語』が通して上演され、錦之助は園部左衛門という物語の中で事件の発端となる役柄を演じた。多くの名優が手掛けてきた二枚目を、折り目正しい芝居で爽やかな品格を湛えて演じ切ったのに感心した。 50歳を過ぎてなお、こうした若々しい二枚目を演じることができるのが、歌舞伎という芸能の懐の深さであり、難しさでもある。単に見た目が若々しいというものではなく、積み重ねてきた芸の蓄積を「どうだ!」と見せるのではなく、役が求める物に過不足なく見せることができるのも経験ゆえだろう。 若手の歌舞伎役者が元気な昨今、子息の中村隼人も若手人気役者の仲間入りをした。まだまだ錦之助を脅かす存在ではないが、息子と二枚目役を張り合える若々しさは貴重な才能とも言える。 錦之助の魅力は容姿だけではなく、張りのある、色気のある科白だ。役によっては女形でも通用するほどの艶があるのは、与えられた肉体に感謝すべきだろう。歌舞伎は、「総合芸術」だとはよく言われるが、役者の肉体が重要な要素を占めていることは言うまでもない。その肉体に恵まれていることは、それだけで有利なのだ。後は、これから年を重ねる中で、どう肉体を活かした芝居を見せるか、だろう。 錦之助が有利なことはそれだけではない。40代の若手に比べて、10年以上もの間、かつての名優たちの芝居に触れている、ということだ。これを活かさない 手はないだろう。若い頃に目にした多くの名優の舞台を想い出し、自分にはどの役が適当か、どう演じるかを考えた上で、錦之助版の役を見せてほしいし、そろそろ適当な時期に差し掛かっている。常に主役級である必要はないのだから、脇でも彼の個性が光るような役を、後に続く世代に見せてほしいものだ。 錦之助の持つ色気と艶を、今後どう活かすかは、歌舞伎を公演する松竹の問題でもあろう。こういう役者が「大歌舞伎」と看板を掲げた舞台でいかに大事な存在であるか。錦之助を活かすも殺すも歌舞伎の作り方次第である。本人の努力が必要なのはもちろんだが、もう一段階、二段階とステップアップできる可能性のある役者だ。