歌舞伎役者列伝・番外編 伝説の名優シリーズ其の一「初代 尾上辰之助」

先日、ある所で歌舞伎役者論をお話した折のことだ、最後に「ご質問は?」と言ったら、「今、もしも初代の尾上辰之助が生きていたらどうなっていたでしょうか」と聞かれた。

歴史に「if」はないから、すべて仮定で答えるしかなかったが、少なくとも歌舞伎界のベテラン陣の様相は大きく変わっていただろう。尾上菊五郎が、辰之助の相手役として女形を演じる機会が増えていた可能性もある。

初代尾上辰之助。昭和21年生まれで、昭和62年に40歳の若さで花を散らした役者だ。昭和19年生まれの片岡仁左衛門、中村吉右衛門と同世代の役者である。

若手の頃は、十二世市川團十郎が市川新之助、現・尾上菊五郎が尾上菊之助で、辰之助とのトリオで「三之助」と呼ばれた人気者だった。小柄ではあったが、江戸前の世話物などの科白の歯切れが良く、メリハリのある芝居で、舞踊の名手でもあった。

昭和57年の歌舞伎座で、『勧進帳』が出た時のことだ。当時の海老蔵、吉右衛門、辰之助の三人が日替わりで、「弁慶」「富樫」「義経」の三つの役を演じたことがある。当時36歳の若手の辰之助たちの世代に勉強をさせようという試みだったのだろうが、これは楽しく、若さの漲った舞台だったのを覚えている。海老蔵は科白に難があったものの、弁慶が似合い、吉右衛門は富樫がはまっていた。辰之助は、どの役を演じても平均点以上の物を見せる役者だ、とその時に感じた。

酒豪で知られ、それが命取りになったとも言えるのだが、昭和61年に病から復帰した折の役が、『仮名手本忠臣蔵』の『五段目』、斧定九郎だった。身体への負担を考えての、二十分程の出番ですむ配役だったのだろうが、病み上がりのやつれた辰之助が鉄砲の弾に当たり、血を吐いて死ぬシーンは観ていて嬉しいものではなかった。

この『忠臣蔵』は主な役を昭和の歌舞伎を背負って来た名優たちが最後に顔を揃えて、国立劇場で10月から12月までの三ヶ月を掛けて通して上演したもので、中村歌右衛門、十七世中村勘三郎、尾上梅幸、十三世片岡仁左衛門、市村羽左衛門らを筆頭に、中堅・若手が勢揃いした豪華な舞台であり、一方では間もなく昭和が終わろうとする事を象徴するかのように、大きな落日がゆっくりと沈んで最後の光芒を放つような舞台だった。

辰之助は、この公演を終え、翌年1月が最期の舞台になった。歌舞伎十八番の『毛抜』の粂寺弾正だったが、この時は持ち前の愛嬌を見せることはできなかった。ギョロリとした大きな目が特徴で、子息の現・尾上松緑が受け継いでいる。

私が好きな役は、『直侍』とも呼ばれる黙阿弥の世話物『雪夕暮入谷畦道』の片岡直次郎だ。悪党ながら色気があり、追われている中を、自分を待つ三千歳(みちとせ)花魁に会いに来る。追手がかかり、「花魁、もうこの世じゃぁ逢わねえぞ」と言い捨てて脱兎のように駆け出してゆく姿。三千歳の雀右衛門が臈たけた美しさを見せる、情緒溢れる一幕は、歯切れの良い科白と共に、今も鮮明に残っている。父・松緑よりも先に天に召されたのが哀しかった。


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