十五代目 片岡 仁左衛門

先ごろ、「人間国宝」に認定される、という嬉しいニュースが舞い込んだ。

これは、本人の技芸の優れたところはもちろんのこと、その上に時代へ歌舞伎を伝えてゆく使命を持たされているものだ。上方で生まれ、江戸と上方の両方の芝居を肌で知っている仁左衛門の芸を、後に続く人々がどう吸収するのか。芸は形のなく、「こういうものです」と教えられるものではない。「芸を盗む」という言葉の通り、仁左衛門からどれほどの「芸」を盗めるか、後進の宿題は大きい。

役者の魅力をたとえて、「一声、二顔、三姿」と言う。仁左衛門は、前名の「片岡孝夫」時代からこの三つの要素に恵まれていた役者である。それを活かして、若い頃からスター街道を驀進して現在の地位を勝ち得たのか、と言えば、実はそうではない。

仁左衛門は、父・十三世と共に、関西の歌舞伎役者として歩んで来た。しかし、若い頃には、関西ではほとんど歌舞伎が上演されず、昭和30年代後半には「上方歌舞伎」は滅亡、という悲劇を歩んだ。同世代の東京で活躍する御曹司たちとは別に、当時の仁左衛門は関西で鬱々とした日々を送っていたのだ。そんな中、父が命がけで始めた自主公演『仁左衛門歌舞伎』で活躍を見せ、東京からの注目を浴びるようになる。

片岡孝夫の爽やかな美貌と口跡の良さが話題になる頃、女形では坂東玉三郎の人気が沸騰し始めた。そして、「孝玉(たかたま)」と呼ばれる美貌の二枚目と女形のコンビが誕生し、新橋演舞場などを中心に、昭和の名優たちを向こうに回して、若い歌舞伎ファンの人気を得たのだ。

人気が不動の物となっても、役者の命に係わる喉を中心にした難病で一年以上の休養・休演を余儀なくされるなど、決して順風満帆な日々ではなかった。しかし、その間に、いつまでも若々しい容貌を保つばかりではなく、仁左衛門は心理的な芸を深めることに日々を送ったのではないか。

やがて、片岡我當、秀太郎という二人の兄を役者に持つ三人兄弟の末っ子でありながら、父の名前を継ぎ、芸はさらに大きく開花した。晩年の父が当たり役とし、「昭和の神品」とまで言われた『菅原伝授手習鑑』の『道明寺』の菅丞相、や『吉田屋』の伊左衛門など、父の当たり役を継承する一方で、先年一世一代で演じた『女殺油地獄』で見せた凄味や、今年の六月の『新薄雪物語』で幸四郎と五分にわたりあって「大人の芝居」を見せた園部兵衛など、十五代目としての役柄をどんどん広げ、確固たる物にしたことも大きい。

古い歌舞伎ファンによれば、仁左衛門は、終戦の年に、亡くなる寸前まで白塗りの二枚目を通した十五代目市村羽左衛門に似ていると言う。芸風や面差しには、確かに共通点がある。一方、父・十三世が見せた滋味のある、老練な役も守備範囲と見えている。いずれも老け役になるが、『新口村』の孫右衛門は以前演じているが、『摂州合邦辻』の合邦や当たり役にしている『沼津』の重兵衛ではなく平作で、父の芸をどう昇華したのか、今すぐではなく、五、六年後に観てみたい気持ちがある。


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