五代目を襲名『中村 雀右衛門』

先日、中村芝雀が父の名、雀右衛門を襲名することが発表された。当代で五代目になるが、先年亡くなった父・四代目は、80歳を超えてなお若々しい美貌で知られた役者でもあった。

昭和2(1927)年に7歳で初舞台を踏み、以降「名子役」として名を馳せたが、その半生は決して順調な歩みではなかった。歌舞伎役者としては珍しいことに、「戦争経験者」であり、昭和15年に招集され、当時では珍しく車の運転ができたために、南方のトラック部隊に配属、再び日本の地を踏んだのは終戦から1年以上経った昭和21年のことだ。

翌年に、歌舞伎の女形として出発するが、空襲で焦土と化した東京で歌舞伎が上演できたのは焼け残った東京劇場、三越劇場ぐらいのもので、27歳にして、「大人の女形」として、遅いスタートを切ったのだ。三越劇場で『毛谷村』のお園を演じた折に、仮設の花道に立っていると、「カタカタ」と音がするので、大道具の音かと思い下を見たら、緊張のあまり自分の足が震えて下駄が音を立てていた、というエピソードは直接に聞いた話だ。

昭和23年には現在長男が名乗っている大谷友右衛門を襲名し、映画へ出演、『佐々木小次郎』などで大当たりを取って、一躍人気スターとなった。歌舞伎の大部屋から映画スターになった例はいくらもあるが、その逆はもしかすると当時の友右衛門が最初かもしれない。

もっとも、その分、本業である「女形」の修行は滞ることになる。そういう意味で、女形・中村雀右衛門としての芸が開花の兆しを見せたのは、60歳を過ぎた辺りではなかっただろうか。しかし、当時は六代目中村歌右衛門が名実共に女形の頂点の座をしめており、どうしてもその影に隠れざるを得ないケースも多かった。しかし、その間に着実に歩みを重ね、70歳を過ぎた辺りからは、馥郁とした香りを放つ女形の第一人者としての地位を確立した。

想い出の舞台はいくつもあるが、平成8(1996)年に、75歳で女形舞踊の大曲『京鹿子娘道成寺』を能掛かりの「乱拍子」から踊り抜いた舞台は忘れがたい。こうして、年齢を重ねてもなお、新しい努力を怠らずに女形の道を歩み続けた父の背中を、芝雀は見ている。

とは言え、いくら親子でも、芸風は違う。五代目となる芝雀の魅力は、年を重ねても変わることのない「清楚な色気」だ。父の名を継いだからと言って、コピーをする必要はない。父が築いた芸のエッセンスを、どのように吸収し、「五代目中村雀右衛門」の芸として見せるかが一番大きな問題なのだ。

50代の歌舞伎役者の相次ぐ悲報の中で、久しぶりにおめでたいニュースが聞けたことは嬉しい。まだ、先代の芸をつぶさに知っている歌舞伎ファンも多いが、それはいつの時代も同じことだ。今の状況の中で、父の名跡を襲名することだけではなく、芝雀に求められる役割はさらに大きくなるだろう。

父親譲りの若々しさに加え、大幹部と若手花形世代を繋ぐパイプ役として、「五代目中村雀右衛門の花」を咲かせる期待が寄せられるからだ。今まで密やかに心の中に貯めていた芸を、一気に開花させるチャンスが訪れたことは喜ぶべきことだ。訃報が続く歌舞伎界で、しばらくぶりに喜ぶべき明るい話題が飛び込んで来た。今こそ、「時分の花」を「まことの花」にする機会である。来年の襲名が楽しみだ。

中村芝雀オフィシャルサイト


クロワッサン特別編集 古典の男たち (マガジンハウスムック)
2015/10/3


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